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あまり知られてないが、明治維新の立役者の地へリベンジ!この人なしで維新はなかった

昨日は一日中雨だったから、朝からお酒飲んでダラダラしてたんですが、

今日は予報では午前中まで雨予報だったのだけど、予報は外れて気持ち良い天気^_^

こうなれば、お出かけしたい病がウズウズ。

で、先週、財布を忘れた岩国へ。どうしても入りたい資料館があるんですよ

まずは今日も登山から

先週の倍ほど人がいます。

しっかり財布を握りしめて岩国城天守閣へ。

この城は吉川家が関ヶ原後に岩国へ移封されて築城されたが、7年後に一国一城令が出されて破却されました。

岩国の吉川家は家格が藩よりも下でしたので。それは8月のプチ旅で北広島の吉川資料館に行った時に、関ヶ原の戦いで毛利家の先陣だった吉川広家が徳川に内通していて動かなかったので、先陣が動かない為に毛利全軍が戦闘に参加できなかった。関ヶ原後に毛利は所領を10ヶ国から二ヶ国に減俸されたのだが、

毛利家内では吉川広家が邪魔しなければ西軍が勝ち、毛利家が減俸されることはなかったと言う意見が多くて吉川家が冷遇されたからだ。毛利の中でもの岩国よりも所領の少ない長府藩や徳山藩、清末藩が支藩とされていたのに、岩国はただの領主扱い。毛利元就の次男の家系なのに、イジメですよね。

お城から

錦帯橋も綺麗に見えてます^_^

天気がいいと気持ちいいですね。

山の上なんで風が通って涼しかったし

城は戦後に復元された鉄筋コンクリート造。内部では名刀の展示が。。だけど、刀剣の美しさはまだわからないんだけど(笑)

下山して、お目当ての吉川資料館へ

ここでは幕末に活躍した岩国領主、吉川経幹(つねまさ)の特別展示。

蛤御門の変の時に蛤御門を守護してたのが毛利の殿様の名代として吉川経幹と岩国兵だったらしい。幕末には毛利の殿様の名代として京で朝廷や公家と交渉にあたったらしい。確かに桂小五郎などの一藩士が行っても気位の高い朝廷や公家が取り合うわけがないよね。

第一次長州征伐では、毛利家の全権を任されて広島に陣をおいた幕府軍と交渉にあたったと。その時の幕府軍の大参謀だった西郷吉之助に、幕府の大目付からの詰問に対する返答などを指南されたと言う日記が残ってる。

第一次長州征伐が戦闘なしに幕府軍の撤退が決まったんだけど、ホスト役の広島藩の役人から、西郷吉之助出席し吉川経幹を含めて宴が用意されたとも。

敵味方を双方呼んでの宴。

今で言う接待だよね。

 

日本の企業文化に切っても切れない接待文化は、この時代には確立されてたんだと、ビックリ‼️

また、吉川経幹がいなければ第一次長州征伐が不戦にならず長州藩が滅亡してたかも。

そしたら明治維新は起こらず、幕藩体制が続いていたかも。。そうだったら、日本は分割されてたかも。

いや、日清戦争、日露戦争もなく、第一次大戦でドイツが敗退することなく、ヒットラーが出ることもなく、大東亜戦争も起こらなかったかも

歴史って、ホントに面白い。

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