四国の百名山の一つ剣山をあとにして、またまた対向車が来たら離合できない狭い山道を1時間下り、車線のある山道を更に1時間走って、次の目的地、
江戸時代の天守が残る現在12天守の一つ、丸亀城へ
この城は石垣の高さが有名らしいです。石垣で60mも上がっての天守。
確かに石垣の迫力は今まで見てきた城の中でも圧巻です。
だけど、去年の西日本豪雨で石垣の一角が崩れてしまっていました。今は復旧プロジェクトがあるようですが、見た感じ、石垣の角から崩れてるので復旧は困難なように思えるのですけど。
江戸時代に廃城になった城は、石垣を全て崩す資金の無い藩は角だけを崩したそうです。石垣は角を崩したら復旧できないからだそうです。これは2019春の九州旅で秀吉の朝鮮出兵のために築かれた名護屋城を観に行った時に学びました。江戸時代に小藩の唐津藩が名護屋城を取り壊すのに最低限の石垣の角だけの取り壊しで幕府に許してもらえたとか。その後、島原の乱で一揆軍が廃城だった原城を拠点にしたため、名護屋城の石垣を追加して破却する様に幕府から言われて、石垣の角だけでなく、長い直線部も追加して壊したとか。
その跡が名護屋城を見に行った時に見学でき、歴史の変遷を学べました。
と、言う事をおもいだしながら、
丸亀城の登山坂を登る事5分、現存天守なは到着、
讃岐国の本城は高松城であつたため、江戸時代の幕府の一国一城令で一度は破却された城らしいですが、高松藩の生駒家が御家騒動で減俸され転封、その後に山崎家が、五万石で丸亀潘を立藩。で、丸亀城が再び整備されたとか。
天守時代ははっきり言って小さい。
江戸時代の建物が残る現存12天守の一つなのに国宝でなく重要文化財でしかない。
その辺の基準の訳はよくわからないけど、
内部な入ると(200円)当時の姿が
現存天守は全てそうなんだけど、階段が急勾配。降りる時に足を踏み外しそうで怖い。怖さの度合いを示すのにどう言えば良いかわからないけど、少し怖い程度でなくかなり怖いレベルの怖さですよ。
上から見たらこんな感じ
昔の武士も、鎧をつけてこの階段を降りたら、滑って落ちて怪我した奴がいたんじゃないか?(笑)
これで姫路城以西の現存天守はコンプリートしたよ。
現存天守は当時の面影を見る方ができ、良い勉強になりました。
時間ができたら、それぞれの城の考察を書きたいと思う。
四国でもう一泊する予定だったけど、体調が優れないようなので広島に帰宅。
良く21日は仕事を休む宣言してたのに朝から仕事のテルが!
休むと言っているのに、コイツら舐めとるようで
結局仕事をさせられる事に
腹立ったから、この日の単価を普段の3倍の1日単価を請求してやろうかと。。。
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