”春眠暁を覚えず”の季節は終わったんですかね?
ちょっと前までは、朝なかなか起きれなかったんですが、今は目覚ましの鳴る6時前には目が覚めるようになってきました。
年取っただけなのか?(笑)
それで、冬場は朝のウォーキングをやめて昼にしてたんですが、今週から朝のウォーキングを再開
川沿いを約45分かけて歩きます。
そのウォーキングの時にはいつもAmazonミュージックで音楽聞いていたんですが、最近は違うものを聞いています。
武田鉄矢の朝の三枚おろしっていうラジオ放送を知ってられますか?
文字通り、武田鉄矢さんが、いろいろな話題を掘り下げて武田さんなりの考えで解説してくれるというものです。
私は歴史が好きでYouTubeで歴史関係の物を見たりしていたら、
おすすめの動画で、武田鉄矢さんが、この三枚おろしで西郷隆盛や坂本龍馬などを武田さんなりに掘り下げて解説されている回が表示されたんですよ。ラジオだから音声のみですから、ウィーキング中に聞くのにちょうどいいと聞き始めたら、
なかなかおもしろいんですよね。
武田さんは大の坂本龍馬ファンで有名ですが、彼の坂本龍馬の解説、今までにない視点で壮大な解説をされてました。マユツバなところも多いですけど、なるほどと納得させられる点も多くて。
坂本龍馬って、土佐の大金持ちのボンボンだったというのは有名な話ですが、それが、本家は土佐で3本の指に入るほどの豪商だったそうです。
そして、坂本家の出自は明智光秀の子孫だと自称していたという話も知っていたんですが、嘘だと思ってたんですよね。江戸時代の家系図は捏造が多かったらしいですからね。
だけど、武田鉄矢さんは、この明智光秀の子孫説に着眼して、明智光秀の居城だった坂本城は旧国名でいうと近江だったんですが、江戸時代は近江商人がかなり幅を利かせていたらしいんですよ。
蝦夷地や東北などからのコメや商品は日本海側をとおる北前船で京や大阪に運ばれてたんですが、その寄港地として敦賀(今でいうところの福井県になるのかな?)から陸路を運んだらしいんですが、その中継地の近江商人がかなり流通を仕切っていたらしいんですよ。
それで、江戸時代は近江商人が幅を利かせていたと。
で、坂本龍馬が脱藩してから、勝海舟を訪ねて行って、弟子になったという話は有名ですよね。
だけど、その当時の勝海舟は海軍奉行をしていて、一回の脱藩浪人が会えるはずのない人なんですよ。
海軍奉行といえば今でいえば戦前なら海軍大臣ですよ。そんな要職の人が面識のない脱藩浪人に簡単にあってたら、暗殺のし放題ですよ(笑)
で、坂本龍馬が勝海舟に会った時に紹介状があったらしいんです。その紹介状を書いたのが福井のお殿様、松平春嶽。
だったら、納得です。海軍奉行といえども旗本の勝海舟、将軍家の親藩のお殿様からの紹介状があれば、脱藩浪人にも会わないわけにはいかないでしょうから。
だけど、なぜ、脱藩浪人の坂本龍馬に福井のお殿様が紹介状を書いたのか。。
そこで、前振りの北前船、福井の敦賀から近江を通って京や大阪に輸送される。それを仕切っていたのが近江商人なら、福井藩主の松平春嶽公に紹介状を書くようにお願いできるだろうと。
で、坂本龍馬の本家は近江出身の豪商。近江商人のネットワークの中にいたんだろうと。
そんな折に、幕府が神戸に海軍塾を作る計画があったので、近江商人たちは自分たちの代理人として坂本龍馬を勝海舟の所に送り込んだということだそうです。
確かに、脱藩浪人がいきなり勝海舟に会ってから半年後にできた海軍塾の塾頭になってたっていうのはうまくできてますよ。
すなわち、坂本龍馬というのは近江商人の代弁者として幕末を動いていたのではないだろうかというものでした。
確かに、坂本龍馬は下関でも豪商の庇護を受けていたし、暗殺された時も豪商の家だ。その店の名は近江屋!
坂本のある所に近江商人のネットワークあり!と
そう考えると、坂本龍馬が他の志士にはいなかった、経済を理解していた志士だったというのも納得です。
興味のある方はyoutubeで、武田鉄矢、坂本龍馬で検索したら出てきますから聞いてみてください。
コメント