大山を後にして
八雲立つ風土記の丘へ
風土記とは奈良時代に大和朝廷から地方にその国の地方史や文化風土を記して収めさせたもの。
資料館てお勉強。200円
映像とボランティアガイドさんの説明で、勉強になりました。
現在。完全な形で残っているのが出雲国風土記だけだそうです。
この風土記の丘の場所に出雲国の国府があり、国分寺や国分尼寺、有力豪族の古墳もあり、この地が古代出雲の中心地だったらしいです。
出雲大社が出雲の中心地だと思ってたんだけど、ココは出雲大社から50キロ以上ほど離れた松江に近い場所だったんで、驚きでした。が、日本書紀に、神がこの地が出雲の中心地として選ばれたと書かれているとか。
このあたりが、古代出雲文明が大和に屈服した背景が感じられます
↑これが奈良時代の一般人の住居だそうです。竪穴式住居から進化してますね。
続いて、車で走ること40分
荒神谷遺跡
ココは1980年代に大量の銅剣、銅矛、銅鐸が発見され注目を集めた場所
それまで日本で見つかった銅剣の総数以上の300本以上の銅剣がココで一気に見つかり、騒然としたところです。
資料館でお勉強して
ココが見つかったところ、縦横10メートル程度のところで、現在は埋め戻されて発掘風景を再現されてます。
ココで見つかった銅剣、銅矛、銅鐸はどこで作られたかは、まだ不明だそうですが、同じ製法の銅剣が北九州でも多数見つかっていて、山陰から北九州にかける文化交流ルートがあったことは明らかです。
復元された古代住居、竪穴式住居ですね。
復元された竪穴式住居はいろんなところで見てますが、基本的に同じ形態
この時代は地方間の文化の相違は大きかっただろうに、九州でも島根や鳥取でも同じ形態の竪穴式住居だったとは思えないんだけどね。
当然、地域バリエーションがあったと思いますよ。
だけど、それはタイムマシンがないと分からないですよね。
もう一泊しようかとも思ったのですが、ここから一気に3時間半かけて帰宅へ
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